誰も孤島ではなく
誰も自分ひとりで全てではない
ひとはみな大陸のひとかけら
本土のひとひら
その一握りの土を波が来て洗えば
洗われただけの欧州の土は失われ
さながら岬が失われ
君の友人や君自身の土地が失われる
人の死もこれと同じで
自らが欠けてゆく
何故なら私もまた人類の一部だから
ゆえに問うなかれ
誰がために鐘は鳴るやと
それは君のために鳴るなれば
ジョン・ダン「死にのぞんでの祈り」 浜田省吾訳
「誰がために鐘は鳴るやと、そは汝がために鳴るなれば」というフレーズは、20世紀のアメリカでヘミングウェイの同名小説の題名」。アルバム「誰がために鐘は鳴る」のタイトルとして引用された。
鐘は誰かのために鳴っているんじゃない、お前のために鳴っているんだという思想は、浜田省吾が原点に回帰し、出来る限りシンセサイザーなどに頼らず、ミュージシャンの演奏にこだわることを暗示しているのだろうか。
個人的なことで恐縮だが、先週の土曜日、何時頃だっただろうか。ベルが鳴った。仕事終りのベルでも、目覚まし時計のベルでもない。
来客が宅を訪問した時に鳴らすベルが鳴ったのだ。誰だろうとドアスコープで確認し、ドアを開けると誰もいなかった。
不思議に思って、部屋に戻ったわけだけれど、1時間ほどして またもや来客が宅を訪問した時に鳴らすベルが鳴った。再度、ドアスコープで確認し、ドアを開けると誰もいなかった。
奇妙な出来事。気持ちが悪く、不安になり、居ても立っても居られない。管理会社に即電話をして状況を説明した。また、ベルが鳴るかも知れない。そう思いながら、玄関で待つも2度と鳴ることはなかった。
そして。
1週間が経った今日、10月16日。
AM09:07 来客が宅を訪問した時に鳴らすベルが鳴った。この時、家族は掃除している部屋の窓から人影を見たという。軽い気持ちで、悪気なくやっているのだろうが、気持ちが悪く、不愉快な出来事。
そうこうして、外出しようと玄関で靴を履いていた時。AM09:45 再び来客が宅を訪問した時に鳴らすベルが鳴った。家族が急いで出てみたところ、階段を下りていく女の子を見たという。
女の子に「あなた?」「誰か見なかった?」と聞くと首を振ったそうだ。
いたずらを許すことは出来ないけれど、子供がやっていると思うことで不安な気持ちは軽減した。
その女の子であれば、なぜ、わざわざ我が家のインターホンを鳴らしているのかが気になるところだ。
ちょっと振り返ってみると。先週の土曜日は、浜田省吾 は CBSソニー の5番 指名打者 という記事を書き、過去にない程、多くの方に足を運んでいただいた日。
幸運の始まりを告げるベルだったのでは?と、ポジティブに考えてみる。再び、今日の記事でも多くの方に足を運んでいただければいいなと。
誰がために鐘は鳴る。
鐘は、誰のために鳴っているのだろうか。わたしにも、原点回帰せよというメッセージなのだろうか。
わたしにとっての原点とは、いったい何なのか。
飾らない、ストレートな言葉。テンポのいい文章。そして、インスピレーション。ヒットしそうなことよりも、ある出来事からインスパイアされて、浜田省吾のことに話を変えながら 文章をしたためることかも知れない。
浜田省吾の「サイドシートの影」のように。
自分の影しかいないのに、そこには誰もいないのに、話し掛けてみたらどうなるだろう。
誰もいないはずなのに、どこからとも言葉が返ってくるだろうか。
もしかしたら、家族が見た人影は、女の子は一人でさみしくて、遊んで欲しかったのかな。わたしに。
浜田省吾のYouTubeで配信されている「少年の心」の1シーンを見るたび、「サイドシートの影」を思いだす。
少年の心 (ROAD OUT MOVIE)
コメント