2022年。尾崎豊 没後30年ということで、2022年3月23日から4月4日まで東京・松屋銀座では「OZAKI30 LAST STAGE 尾崎豊展」が開催された。以降全国巡回予定だという。全国の尾崎ファンは、続報を楽しみに待っていることだろう。
また、「LAST TOUR AROUND JAPAN YUTAKA OZAKI」が3月23日に発売されている。
そんな中、今朝、田家秀樹さんのブログ「新・猫の散歩」で、尾崎豊さんに触れていた。ブログを読み、あることを今頃思いだした。
尾崎豊の存在
尾崎豊は、ワタシの中で特別な存在なのかなと。
浜田省吾よりも先に尾崎豊を聴き、夢中になった。当時、一緒に遊んでいた仲間が尾崎豊にぞっこんだった。
尾崎豊は、1983年(昭和58年)12月1日、アルバム『十七歳の地図』、シングル「15の夜」でデビュー。ほぼリアルタイムで聴いていたという記憶に間違いなければ、ワタシはティーンエイジャーだった。
あどけなかっただろうワタシは、尾崎豊の歌う曲に共感し、感動した。まだあどけなく、汚れなど知らない頃、尾崎豊は、ワタシの心の叫び、口にだせないことの代弁者のようにも感じていた。
「十七歳の地図」、「回帰線」、「壊れた扉から」、「街路樹」。発売されるアルバムを聞き、音楽のことを何も知らない雪国育ちのティーンエイジャーは、徐々に違和感を感じ始める。
歌詞が、曲が。というものではなく。何かが違う。と感じ始めていた。それまで感じていた尾崎豊ではないような、どんどん変わってしまって、遠い存在になっていくような。
尾崎豊への熱が冷めはじめた頃、入れ替わるようにして聞き始めたのが浜田省吾だった。浜田省吾は、ワタシの代弁者ではないような気はしたが、どこか、こう、浜田省吾の描く世界は、ちょっぴり大人になれたような気分にしてくれた。
尾崎豊とワタシ
話しを戻すと、尾崎豊 没後30年。あの日、実家の雪国で、コタツに入って見た芸能ニュースを思いだす。田家さんのブログを読んでしみじみと。実家にまで押し寄せている尾崎豊のファンの姿は、今でも忘れられない。ワタシの友達も、何回も足を運んだと聞いた。
年代前半、音楽シーンが激変する中で尾崎さんが出てきた。彼がステージで「教室でジャクソン・ブラウンやブルース・スプリングステイーンや浜田省吾や佐野元春を聴いてたんだ!」と叫ぶのを聴いてまだやることがある、と思えたこととか。
尾崎豊さん、没後30年。 : 田家秀樹ブログ・新・猫の散歩
こう、田家さんのブログに書かれている。
尾崎豊は、若くしてジャクソン・ブラウン、ブルース・スプリングステイーン、浜田省吾、佐野元春を聴いてたというのだ。ワタシは浜田省吾を1986年のアルバム「J.BOY」で知ることになるのだけれど、夢中になれずに一度離れた。
だが、尾崎豊は、若くして浜田省吾を聞いていたこと。そして、影響を受けたこと。この違いは、一体何なんだろうと思う。育った環境の違いなのか。
ワタシの両親は、とくに父は演歌ばかり聞いていた。家でも、車の中でも。もっぱら演歌。幼いころから演歌ばかり聞かされていたワタシは、どっぷりと その世界にハマっていたのだろうか。
そう思うけれど、そういうことでもない。ザ・ベストテンを見て、心躍る瞬間は何度もあった。育った環境というよりは、DNAといえばいいのか。
かといって、父は演歌一辺倒だったわけではない。ある日、サッチモのLPを買って聴いていた。幼いワタシが、サッチモのLPを聞いて、よさがわかるはずもないけれど、演歌ではなくジャズを四六時中聞いて過ごしていたら。などと思う。
ワタシの弟は、ワタシが聴いていた浜田省吾を一緒に聴き、気に入ってコンサートにも一緒に行った。この違いは、一体。。。
さいごに
尾崎の作品で、心に残っているものは少なくない。
その中から、今日あげるとすれば、アルバム「回帰線」に収録されている「存在」。
受け止めよう 目まいすらする 街の影の中
さあもう一度 愛や誠心で立ち向かって行かなければ
受け止めよう 自分らしさに うちのめされても
あるがままを受け止めながら 目に映るものすべてを愛したい
存在 / 尾崎豊
回帰線 (尾崎豊のアルバム) – Wikipedia
の解説には、こう書かれている。
当時尾崎は一人暮らしを始めていたが、家では書けないと述べ事務所やレコーディング・スタジオで作詞作業を行っていた
そんなことがあったとは知らず。
また、須藤晃が、アレンジを担当した町支寛二に言った忠告の一言も知らず。こんなエピソードがあったとは。
作品のエピソードに興味がある方は、回帰線 (尾崎豊のアルバム) – Wikipedia をご覧になってください。
[Official] 尾崎 豊「I LOVE YOU」 (LIVE)
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