田島照久さんが、Instagramを更新していた。
尾崎豊 「太陽の破片」のジャケット写真。
撮影時のエピソードが書かれている。
尾崎は、何度もポラを確認して手の角度にこだわっていたと。
凡人にはわからず、また、撮影する人間でも手出し出来ない領域。
選ばれた人間にしか出来ない表現。
「太陽の破片」のジャケット写真には、尾崎の どんな気持ちが込められているのだろうか。
尾崎の気持ちが知りたくなって、「太陽の破片」の歌詞を読んでみた。
「太陽の破片」というタイトルでは気づかなかったけれど、歌詞を読んで どのような曲なのかを思いだした。わたしは、尾崎豊の曲が大好きで、毎日のように聴いていた。ある時期までは。
まだ若かった頃。
浜田省吾の書いた楽曲の歌詞を理解することが出来なかった。そして、楽曲を聴いても心に響かなかった。
対して、尾崎豊の書いた楽曲の歌詞は、ストレートに伝わってきた。尾崎豊は、「10代の代弁者」。そう呼ばれていたのだが、まさしく、「これだ」「オレも、わたしも、こんな風に思っていたんだよね」と共感した。多くの若者が、同じことを考えていたに違いない。
歌詞、メロディ、歌声。そして、ルックス。すべてが好きで、好きで好きでたまらなかった。だけど、そんな気持ちも長続きしなかった。あるアルバムの曲を聴いて、「何か、ちょっと違う。。。」。そんなことを考え始めて、距離が少しづつ離れて行った。
1992年4月25日、尾崎豊は26才で天国へ旅立った。わたしは、芸能ニュースを実家のコタツで見ていた。友達は、尾崎豊の実家へ訪れたようだ。渋谷クロス タワー(旧東邦生命ビル)には、尾崎豊記念碑が設置されている。
尾崎豊記念碑。
渋谷クロスタワー3階テラス。26歳で死んだカリスマのレリーフと「十七歳の地図」の歌詞が彫られている。ここは尾崎が青学高等部に在籍していた当時、お気に入りの場所だったそうだ。まわり一面にファンの寄せ書きがある。 pic.twitter.com/BxscBaRYeZ— マサル☆ (@masarutak) May 23, 2021
会社の近くにある尾崎豊記念碑に行ってきた。青学通ってたときにここからよく夕陽を見てたそうな。
古っ!って言われるけど僕は好きです。『僕が僕であるために』が一番好きです。https://t.co/e0ISpNpxFf pic.twitter.com/ZZeZjfTIIE
— こう (@kohkoh58) April 21, 2021
本日は番組をご覧いただきありがとうございました。
尾崎豊さんの命日の今日、東京・渋谷の「尾崎豊記念碑」前の様子です。
亡くなって27年。尾崎豊さんは今でも生きていらっしゃるのですね。#尾崎豊 #シンソウ坂上 pic.twitter.com/PTGvU1Iv8J— 直撃!シンソウ坂上【公式】 (@ss_fujitv) April 25, 2019
2021年5月15日。ミュージックフェアで、尾崎豊特集を見て、尾崎の曲が聴きたくなった。久しぶりに聴いた尾崎豊の楽曲は、あの頃感じていた以上に、心に響いた。
理想と現実。夢。希望。挫折。いろんなことを感じさせてくれた。
もし、尾崎豊が生きていて、『十七歳の地図』を聞くことが出来たら、どんなに素晴らしいだろう。
尾崎豊と浜田省吾。この2人が同じステージに立つ姿を見たいと思う。でも、尾崎豊はもういない。
1984年アトミックカフェフェスティバル尾崎豊骨折7mジャンプ記事。
出演・浜田省吾、尾崎豊、ルースターズ、ブルートニック、ARB、タケカワユキヒデ、白竜、PJ&クールランニングス、ゼルダ。 pic.twitter.com/gXBjXnrHIc— hatefull felix (@FelixHatefull) August 12, 2015
尾崎豊のWikipediaを見ると、共同作業者に、須藤晃、、田島照久、町支寛二の名前を見つけることが出来た。
1983年12月1日に発売された尾崎豊のファーストアルバム「17歳の地図」に収録されている
05.15の夜
07.愛の消えた街
10.僕が僕であるために
の3曲の編曲は町支寛二。
尾崎豊は、1990年に浜田省吾が所属する「ロードアンドスカイ」に移籍している。
尾崎豊さんも一時期浜田省吾さんのロードアンドスカイに所属されていたんですよね、尾崎さんが浜田さんにサングラス外していただけますか?と言ったら浜田省吾さんがサングラスを外されたそうですね。 pic.twitter.com/aYBqeaPRK6
— Hiro (@gfYfNDVuy7Tnr6d) April 7, 2020
尾崎豊とのレコーディング、1984年8月4日、日比谷野外音楽堂で行われた反核のイベント「アトミック・カフェ」、「ロードアンドスカイ」に移籍した際のエピソードが板倉雅一さんのブログに綴られている。
そういえば、浜田省吾と尾崎豊のエピソードがある。
’83年の初めか前の年の終わりか、僕の運転する車の隣に座っていたディレクターの須藤君が「今18歳の面白い男の子を見つけたんだよ」って言ったんです。「へぇ~どんな子?」って言ったら「浜田や井上陽水・佐野元春君とか日本のロックやポップミュージシャンの影響を受けて出てきた最初の感じなんだ」って。
それから1年くらいしてですね。彼が登場したのは。’84年の「アトミックカフェ」。僕たちはリハーサルをやってて、どこかに行ってたのかな。戻ったら「尾崎君が飛び降りて足を骨折した」って。現場は見てないですけど、花を贈ったんです。そしたら看護婦さん達から「何で浜田省吾を知ってるんだ?」って言われて喜んでたと聞いて、可愛い子だなと思った(笑)その後、’86年に『J.BOY』のトラックダウンをロスで終えて、ニューヨークで彼と会ったんですね。そしたら『J.BOY』を「このアルバムって、僕のことを歌ってるみたいだ」って言ってたの。だから「そうだよ。君のことだよ」って答えたのを凄く覚えてる。『J.BOY』の完成したトラックダウンを、最初に聞いたのは彼だったんですね。
「浜田省吾事典」より
尾崎豊は、『J.BOY』に何を感じたのだろうか。
昔のことをを思いだして、しゃべり過ぎてしまったようだ。酔ってもいないのに。。。
♪狭いDance Hallは…沢山の人だかり 陽気な"色"と"音楽"と煙草の煙にまかれてた…
子猫のような奴で生意気な奴…
小粋なドラ猫ってとこだよ…
CDシングル"15の夜"B面…
"ダンスホール"…尾崎豊の曲で好きな曲の一つ…
"尾崎豊" 浜田省吾の影響も受けてた…。興味本位で買った。#尾崎豊 #浜田省吾 pic.twitter.com/pZckLkBV7j— ❝夜は低浮上中 (@tkhsmsht) May 10, 2019
リハーサルでこの曲をやってみた。
良い感じだ。「佐野元春さん、尾崎豊さん、浜田省吾さん、等々、そういった日本語ロックンロールを作ってきた先人たちの影響、それへのオマージュの部分と、あくまでも内容は僕が感じている『今』を書いてみました」
本人談 pic.twitter.com/kD493MaUtx— Yuya Takahashi *YT* (@yuya005) September 27, 2019
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